サンディエゴ一帯にしぶとく停滞していた重たい熱気団はいつの間にか姿を消し、朝夕に窓から忍び込んで来る風の冷たさにハッとするようになりました。裏庭で日々陣地を拡大し続けていたかぼちゃの蔓はその成長をパタリと止め、少し前まで十個以上鮮やかに咲き狂っていた黄色いこぶし大の花も、その痕跡さえ遠目に確認出来ないほど茶色くしぼんでしまいました。
かれこれ五ヶ月間ほぼ自宅を離れず生活して来たため、日々変化する外界の様子に関心を向けていなかった私。これまで数え切れないほど経験して来たことだけど、またひとつの夏が終わってしまったのだという気づきに不意打ちを食らい、じんわりと動揺しています。しかも今回は、いつか思い出して微笑んだり涙腺が緩んだりするようなイベントが何ひとつ無かったということに、あらためてコロナの影響の大きさを考えさせられるのでした。
私にとって夏というのは、たとえ他の三つの季節が束になってかかろうとびくともしないほど重要な位置を占めていて、印象的な人生の記憶は概ねこの時期に集中しています。子供時代のキャンプに始まり、学生時代のエネルギーに満ちた活動の数々、そして職を辞して南カリフォルニアに渡ったのも、ちょうど夏真っ盛りでした。
海の家で食べる蛍光色のかき氷、海水浴場の喧騒、閉じた瞼を通してもなお眩い青空、日焼けした頬、祭りの屋台のアセチレンライト、キャンプファイヤーの周囲を舞い儚く消える火の粉、激しい夕立、濡れた髪、浴衣、花火を見上げる瞳に映る鮮やかな色彩。こうした様々なシーンが緻密に織り込まれたきらびやかな絹織物のように、夏は私の心を踊らせる大切な人生の背景画になっているのです。
学生時代、9月の新学期が始まって間もなく、当時住んでいた港南台から根岸線で桜木町へ向かっていた朝のことです。吊革につかまって車窓の外をぼんやり眺めていた時、確か磯子を過ぎ、電車が高架部分に入った辺りだったでしょうか。急に視界が開け、大きなプール・センターが現れました。高校時代に何度か友達と連れ立って遊びに行ったことのある場所で、広大な敷地を周回する「流れるプール」が売りでした。
車窓を横切るほんの一瞬でしたが、全てのプールはすっかり水を落としてあり、清掃人があちこちでデッキブラシを動かしているのが見えました。そのうち一人はブラシの柄を胸の前に立て、重ねた両手に顎を載せて支えながら、ぼんやり遠くを眺めています。
景色が変わって数秒後には、どうにも落ち着かない気分に包まれていました。否定しようもないほど明確な夏の終りのイメージをたった今、目の前に突きつけられた。水しぶきの中ではしゃぐ何千という若者や子どもたちの笑い声や叫び声。想像の中でその轟音が鼓膜を打ち、瞬時にかき消えます。耳の奥でいつまでも消えない残響。生命が最も躍動する大好きな季節が今はっきりと過ぎ去ってしまったのだということを全身で感じ、どっと涙が湧いて来たのでした。もちろん、すんでのところで堪えましたが。
数週間前、夫婦でネットフリックスのオリジナル・ドキュメンタリー “David Foster – Off the Record”を鑑賞しました。デイビッド・フォスターと言えば、映画「セント・エレモス・ファイヤー」のテーマ・ミュージックやChicagoの「素直になれなくて」をプロデュースした超売れっ子の音楽家。彼は何度も離婚を繰り返し、ヒット作を連発し、時に各賞を総なめにし、ド派手な私生活を送って来た自由人です。鼻持ちならない自惚れ屋ではあるものの、常に最高の仕事をすることで批評家の口をつぐませている。映画の中盤で彼が、「俺はよくこう自分に問いかけるんだ」と語っていました。
“How many summers do you have left?”
「あといくつ夏が残ってるんだ?」
これは私だけでなく、妻にも刺さった一言でした。そうだ、ひとつの夏も無駄には出来ない。僕らには無限に夏が残されているわけじゃないんだ…。大いに元気づけられた我々二人でした。
そんな思いがどう働いたのか謎ですが、先週後半になって急に思い立ち、早朝ウォーキングを始めた私。マスクをつけて五時半にスタートし、暗闇の中、ガランとした巨大ショッピングモールの外周を早足で三十分以上歩きます。六時半頃まで夜が明けないので、家に戻るまでずっと暗いまま。車の通りはまばらで、歩いているのは私ひとり。いつ建物の陰から不審者が現れてもおかしくない状況。考えてみれば、会社に通っていた頃は毎日この手のスリルにさらされてたんだよな。それが無くなったことで、精神が弛み切っている…。そうか!と心の中で膝を打ちます。
僕が夏を好きなのは、ドキドキするチャンスが沢山あるからなんだ。あちこち出歩くこと、人と会うこと、夜更しすること、陽焼けすること、水に入ること。みんなリスクと隣合わせです。しかしその見返りに、新しい何かを体験出来るかもしれない。その期待感がたまらないのですね。
よし、怪しい輩が物陰から飛び出して来たら、ポケットに忍ばせた家の鍵を拳から少しだけ出し、武器として使おう。怯んだ相手の手首を素早く取り、合気道技で関節を決めて…と護身シミュレーションを重ねながら歩くことにしたら、ウォーキングが格段に楽しくなって来たのでした。
さて、昨日の晩は妻が、急にNHK紅白歌合戦を観始めました。DVRに録画しておいたものの、八ヶ月間も放っておいて、何故今頃?と思ったのですが、九時半を過ぎていたので、私は先に消灯(最近はすっかりジジイのスケジュール)することに。寝室のドアの隙間からテレビの音量が微かに届いていたのですが、気にせず眠ることにしました。ところが十数分後、大きな悲鳴で目が覚めます。確かに今、彼女の声が聞こえたよな…。耳を澄ますと、男性歌手が元気よく演歌を歌っている声がしている。う~ん、気のせいだったかな?そう思い直して目を閉じたのですが、その僅か数秒後に再び、「キャッ!」と叫ぶ声。そして相変わらず演歌。
おかしい。演歌を聴きながら二度も悲鳴を上げる理由なんて、どう考えても思いつかない。もしかして、強盗がこっそり侵入して来たのではないか?息子は部屋に籠もってイヤホンで何か聴いていて、気づいてないのかもしれない。これは私が助けに行かないと、彼女の身が危ないぞ…。
そうっとリビングに近づいて行って顔を出すと、妻がカウチにのけぞって左手で口を抑え、右手でリモコンを握りしめています。
「どうしたの?大丈夫?」
と問いかけると、
「ごめんなさい。聞こえた?」
と妻。テレビ画面を振り返ると、三山ひろしがマイクを握って一時停止しています。その背後には、番号の書かれたホワイトTシャツを来た若者たちが大勢立っている。これで合点が行きました。
「あ、けん玉でしょ。」
「知ってたの?」
三山ひろしが「男の流儀」を歌唱する間に、彼を合わせた124人がけん玉連続成功ギネス記録にチャレンジする、という企画。
「もうどんどんどんどん緊張して来てちゃって、見てられなくて…。」
それで思わず悲鳴を上げてしまった、という妻。
夏の終りの「ドキドキ」は、こんな意外な形で我々夫婦の元に訪れたのでした。