2020年7月19日日曜日

荒ぶるカレン


カリフォルニア州の新型コロナ新規感染者数が、もうすぐ一日一万人を超えようという勢いです。州知事は態度を硬化させ、二度目のロックダウンを敢行しました。手綱を緩めるのがちょいと早すぎた、ということになりますね。ニュースを見ていて驚くのは、この期に及んでも州知事の何人かは未だにコロナ対策を軽んじている、という点。そもそも国のリーダーが、「俺はマスクなんかしない」と鼻息を荒くしているし、世界最多の感染者数を毎日更新している中、「学校はすぐにでも再開すべきだ、そうしない州には俺から圧力をかける」と息巻いているくらいなので、もうしっちゃかめっちゃかです。全米各地で、「マスクをする、しない」の口論がきっかけで乱闘や殺傷事件まで起きている始末。

つい先月も、サンディエゴのスターバックスで事件がありました。「マスクをしていなかったためにひどい扱いを受けた」と白人中年女性が激怒し、男性バリスタに罵詈雑言を浴びせて立ち去った後、再び店内に入ってきてこのバリスタの写真を撮影。彼の実名入りでフェースブックに載せたのです。「レネンを紹介するわね。スターバックで私がマスクをしてないからとサービスを拒絶したの。この次は警察を呼ぶわ。」とコメントして。レネンは後にビデオインタビューで、「マスク持ってますかって聞いただけなんですけどねえ、なんか急に怒り出しちゃって。」と驚いた様子。

風邪のシーズンには街がマスク顔で溢れる国からやって来た私には、そもそも「マスクをする、しない」で喧嘩になる、という現象自体が意外でした。え?そんなに嫌がるようなことなの?と。

今回スタバで起きた事件は、これで終わりじゃありませんでした。女性のポストした記事に批判が殺到し、これに彼女が反撃。「あんたら暇人の脅しなんか怖くないわよ。」すると殺害予告まで含めた脅迫的なコメントが続々とポストされます。次に誰かが、「レネンに寄付を!」とGoFundMeというアプリを使って呼びかけたところ、あっという間に十万ドル(約一千万円)が集まったのです。

いかにもアメリカ的で素っ頓狂な話だなあ、と再び感心する私。この時発起人の書いた言葉が、これ。

“Raising money for Lenin for his honorable effort standing his ground when faced with a Karen in the wild.”
「調子こいたカレンに屈せず自らの立場を貫いたレネンを讃えるため、寄付を募ります。」

さて、この「カレン」という単語。渦中の女性の名前はアンバー・リン・ギルズで、どこにも「カレン」という言葉は含まれていません。何故ここでカレンが出てくるのか。鍵は、冠詞付きだという点(a Karen)ですね。つまりこれ、傲慢な白人中年女性のタイプを総称して、普通名詞的に使われているのです。

ウィキペディアの説明が、これ。

“A white woman who uses her privilege to demand her own way at the expense of others.”
「他人を犠牲にしてまで自分のやり方を押し通そうと特権を使う白人女性」

以前18歳の息子から、「カレン・ミーム」として、左右非対称のブロンド・ボブにでかいサングラスをかけ、「マネージャーを呼んでちょうだい」と表情を硬くした白人中年女性の写真を見せられたことがありました。彼にあらためて確認したところ、Karenはアメリカ人なら誰でも知っているミームだとのこと。

「今のボスの名前、カレンなんだけど…。」

と私。たまたま大衆から侮蔑の対象にされた名前を持つ人にとっては、いい迷惑でしょう。それにしても、どうしてカレンなどという名がこの不名誉なイメージの代表として選ばれたんだろう?そんな疑問が湧いてちょっと調べてみたところ、現代の中年白人女性に最も多い名前がカレンだということが分かりました。つまり、自分を特権階級と信じて偉そうに振る舞う白人女性の典型、というステレオタイプですね。ふ~ん、そうなのか。この名前にそんなイメージ抱いたこと、今まで無かったなあ、と振り返ってみたところ、かつて大滝詠一の名曲で私のカラオケ・レパートリーでもあった「恋するカレン」の歌詞が、結構ネガティブだったことに気づきました。

形のない優しさ それよりも見せかけの魅力を選んだ
Oh Karen! 誰より君を愛していた 心を知りながら捨てる
Oh Karen! 振られた僕より哀しい そうさ哀しい女だね君は

そっか、さすが松本隆(天才作詞家)、あの頃すでに「カレン」の正体を見抜いていたのか…。

さて、サンディエゴの「カレン」ですが、バリスタのレネンが十万ドル超えの寄付金を受け取った話を聞き、テレビ局の取材にこう答えたそうです。

「その半分は私がもらうべきでしょ。訴訟を起こすわ。これから弁護士費用を集めるために、GoFundMeで寄付を募るつもりよ。」

…すんげ~!


2020年7月3日金曜日

ツイてるねノッてるね


昨年末からほぼ毎週末、我が家のホーム・ドクター兼トレーナーである川尻先生のクリニックで、パーソナルトレーニングを受けています。最初は妻と二人で通っていたのですが、四月からはコロナ禍でコロラドから戻って来た息子も加わり、家族でエクササイズ。ソーシャル・ディスタンスを保ちつつ、コア(体幹)を中心にしたメニューで汗を流しています。そんなある日、川尻先生から「シンスケさんは今日は休んで下さい」と宣告されます。え?どして?と尋ねると、トレーニングが出来る体調では無い、働き過ぎで副交感神経が完全にオフっているので、今身体を追い込むのは得策でない、とのこと。私自身にはそこまでの自覚が無く、多少疲れてはいるけど運動したい、と意気込んでいたので正直驚きました。交感神経が暴走し、ハイパー状態が続いていたため、肉体が疲労困憊しているのを自覚出来ていなかったのですね。しかし、こうなった原因はよく理解していました。

隔週水曜の11時には、私の主催する定期プレゼンがあります。各支社で働くプロジェクト・コントロールのスペシャリスト達に向け、私の実体験をパワポ紙芝居に載せてストーリー形式で語るのです。大規模プロジェクトでのリアルな失敗談や、すんでのところで危機を回避したハラハラ・エピソードなどを紹介するため、まだ駆け出しの社員でもベテランでも楽しめるフォーマット。口コミで評判が広がったようで、回を追うごとに参加者が増え、登録数は遂に八十人超え。去年はサンディエゴの会議室で自分のチームメンバーのみを集めて喋っていたので、まるで自宅の居間に前座や二つ目連中を座らせて釈台を叩くベテラン講釈師みたいな気分でした。しかし年明けにマイクロソフト・ティームズを使って一般社員にも開放したところ、あっという間に拡散。気がつけば、出席者の七割は面識無し、という状況になっていました。最近はフィリピンの社員までメンバー入りしていて、「わざわざ海外から深夜に参加してくれるお客さんもいるんだ。みなさんの期待に応えるには、前回のクオリティを超え続けなければ!」と、平日の夜と週末をほとんど費やし「産みの苦しみ」に身悶えする日々。二週に一本のペースで新作をおろし続けるなんて、そもそもだいぶ無茶な企画です。なんでこんなことになるまで自分を追い込んじゃったんだろう、と悔やむ一方、開演五分前からパソコン画面に参加者の顔がじゃんじゃん現れ始めると、「さあショーの始まりだ!」と興奮に身体が震えます。これ、アドレナリン・ジャンキーの症状だな…。

ところが先週、とうとう恐れていた瞬間がやって来ました。

「やばい、もう何も浮かばない。ゼロだ。完全にネタ切れだ…。」

私のプレゼンの構成は、最初の三分に「つかみ」のセーフティー・モーメント(安全行動を喚起するエピソード)があり、これに関連したテーマのストーリーを二十分程度語る、というもの。例えば、「自分自身の体調を正しく判断するのは難しい。交感神経が異常に興奮した状態だと自分は元気だと思い込みがちだが、実は身体が疲れ切ってることがあり、こういう時のエクササイズは危険である。」というエピソードを紹介した後、EVM(アーンド・バリュー・マネジメント)における「進捗状況の客観的評価」は意外に難しいのだが、「難しい」ということを理解しておくことこそが鍵なのだ、というメッセージを核にした実体験を語って伏線を回収する、という具合。そんな余計なルールをスタート時から自分に課してしまったばっかりに、毎回この重い枷に苦しむことになっているのですが、もう後戻りは出来ません。次回は「リスク・マネジメント」をテーマに一本作る予定にしていたのですが、つかみどころか本編すらも、全くアイディアが出てこない。これは遂に万事休すか…。

呆然と窓の外を見つめていた時ふと、昔YouTubeをブラウズしていたらテレビ番組「情熱大陸」が偶然現れ、それが作詞家松本隆の特集だったことを思い出しました。松田聖子の「赤いスイートピー」や太田裕美の「木綿のハンカチーフ」等、夥しい数のメガヒット作品を世に出してきた彼。ひょっとしたらその創作の秘密を学べるかもしれない、と再検索して鑑賞し始めたところ、稀代の天才作詞家は軽く微笑みながら、ボソボソとこんな話をするのでした。

「無理に作るとね、ろくなことないの。考えること自体不自然じゃん。」

「どうやって愛してるとか好きっていう言葉を使わないでそれを伝えることが出来るか。それが分かればさ、歌になるの。」

う~ん、素晴らしい。「何故知り合った日から半年過ぎても、あなたって手も握らない」なんてフレーズ、もう唸るほかないもんなあ…。

新たに何か吸収しようしようって、そういう感じで「本を読んだり映画を観たりする」ことはないか、と尋ねられ、

「それってもうね、不自然なことなの。何かのために何かするって不自然。たとえばネタを仕込むために本を読むとかさ。それやるとね、不自然だから。そういう不純な動機で得た知識っていうのはさ、不純な作品しか産まない。」

「書くのは早いの、僕ね。二時間くらいで書けちゃうんだけど、そこに、その世界に到達するまでに、長いと半年くらいかかるし、何書こうというんじゃなくて、何か星雲みたいなものがあってさ、もやもやっとしたものがあって、で、じっと見てるとそれが凝縮していって、で、段々クリアになってくるわけ。で、余計なものがこう取り除かれてって、で、残ったものを言葉にしてあげるって感じ。」

偉大な巨匠のこの仙人じみたトークを楽しんでいるうち、不思議に気分がスッキリして来ました。そうだ、創作ってのは、気合入れりゃ出来るってもんじゃないんだ。大体僕のプレゼンシリーズだって、誰かに頼まれて始めた企画じゃないんだし、いい作品が時間通りに出来なければその週はお休みにすればいいだけの話じゃないか…。久しぶりに肩の力が抜け、笑顔を取り戻したのでした。

さて、木曜の五時過ぎのこと。古いローファーをつっかけて庭へ出て、ベジタブル・ガーデンの様子をチェック。ネギもにんにくもセロリも、薩摩芋も順調だ。赤赤と熟れたミニトマトを左手に山積みにし、こぼれ落ちないよう注意深く歩いて戻ります。日差しはまだ肌を刺すように強く、随分日が長くなったなあと実感しながらダイニングルームの扉を開けると、妻が恨めしげに私の顔を凝視しています。え?何か気に障ることしたっけ?反射的に謝りそうになりますが、思い当たる節がない。彼女が無言のままゆっくりと視線を移動し始めたので、その先を目で追ったところ、キッチンの壁に掛かっていたはずの大型時計が姿を消しています。支える相手を失った小さな金色のフックだけが、きまり悪そうに居残っている。そして真下のカウンターテーブル上、「元」壁時計が三つくらいのパートに分かれて折り重なっていることに気づきました。え?なんで?僕が庭に出ている間に砕け落ちたのか?でも一体どうして?

妻が息子の名を呼び、ゆっくりと部屋から現れた彼に説明を要求します。きまり悪そうに笑いながら、18歳の息子がごめんなさいと侘びます。むすっとしたまま立つ妻の横で、彼が顛末を話し始めました。

筋力トレーニングに夢中な彼は、数ヶ月前に懸垂器具を購入しました。自分の部屋の扉の枠板にそれを引っ掛け、ぶら下がって懸垂するというもの。先程トレーニング中に突然板が剥落し、器具もろとも背中から床に落下。後頭部を護ろうと咄嗟に上体を捻ったところ、背後の棚の角におでこの上の生え際を強かに打ち付けた。この衝撃で、棚の裏に掛かっていた壁時計が落下した、というわけ。

「分かってると思うけど、いくらなんでも愚かすぎるだろ。」

と首を振る私。うん、分かってる、と頷く息子。彼の部屋の扉上の枠板は以前から撓みが確認されていて、このまま荷重をかけ続ければ近々崩壊点に達するだろう、ここでの懸垂は禁止だぞ、と常々警告していたのです。仕方なく客間の入り口を使用していたのですが、平日の日中は私の仕事部屋になっているため、いちいちノックしてからでないとドアを開けられない。これを不便に感じていた彼は、遂に自分の部屋を使い始めたのですね。「立入禁止区域に侵入した小学生が感電事故」みたいな、非常に低レベルな失敗。

「まあでも、大怪我にならなくて良かったな。」

という私の大甘コメントが癪に障ったのか、妻が、

「結婚十周年の記念で買った時計だったのよ!」

と緊張レベルをレッドゾーンに戻します。

「ごめんなさい。」

と再び謝る息子。

後で彼と二人になった時、そもそもどうしてそういうことになったのか、あらためて尋ねてみました。分別に欠ける年頃とはいえ、その脆弱さを十分理解していたはずの構造物に全体重を預けようと決めた心境が、私にはどうしても理解出来なかったのです。

「懸垂したいと思った瞬間には、もうあれセットしてたんだよね。」

テストステロン(男性ホルモン)のせいで理性的な判断力が吹っ飛んでしまったんじゃないかな、と息子。なるほど、ホルモンね。でもさ、首から落ちて致命的な怪我になっていたかもしれないんだよ、と私が言うと、ここ触ってみてよ、とこちらの右手をつかんで前頭部のコブを撫でさせ、少し笑ってから、

「これまでのトレーニングでコア(体幹)がしっかりしてたから、咄嗟に顎を引いて上体を回転することが出来たんだね。」

と何故かドヤ顔。おいおい、何でそこで得意気なんだよ?君のその愚かさのせいで、両親の結婚十周年記念の品が木っ端微塵になったんだぞ。

「あ、それはごめん。」

と再び恐縮するものの、どこまで反省しているのかは謎。つくづく思うのですが、彼のこの圧倒的な「自己肯定感」は、強みではあるものの手放しでは称賛出来ません。小さなことで落ち込んだり自分を卑下したりしない一方、知らぬ間に他人の感情を傷つけたり同じ失敗を繰り返したり、という危険と隣合わせなのです。

ここではたと気づく私。これって、大半のプロジェクトマネジャーに見られる傾向じゃないか?特に男性の…。大規模プロジェクトを任されて二つ返事で引き受けるなんて、冷静に考えれば正気の沙汰ではないのです。そもそもプロジェクトなんてものは不可知の危険が一杯で、失敗して責任を取らされる可能性をちょっとでも想像すれば、二の足を踏むのは当たり前。ところが自己肯定感の強い人間は、どんなリスクを突きつけられてもビビらないのですね。だからこそプロジェクトマネジャーにはそういうタイプが多く、実は愚かな失策を犯しやすいし、犯しても気づかない。そればかりか、自分は結構うまくやれてると思い込んだりする。

おお、次回のプレゼンの骨組みが見つかったじゃないか!無理して考えず自然に過ごしてたら、勝手にあっちから現れた…。やったぞ。ついてるな、ノッてきたぞ。松本先生有難う!