一月に婚約してフロリダのペンサコーラへ引っ越した部下のブリトニーから、
「ちょっと話せる?」
とテキストが届きました。
「特に何もないんだけど、暫く話してないから近況報告したくって。」
「オッケー。じゃあ一時間後に。」
ドアを開けてキッチンに進み、紅茶を淹れようとポットの「再沸騰」スイッチを押します。
先週木曜にカリフォルニア州知事が「全州民外出禁止令」を出したことで、最後まで出勤組だった私も遂に自宅勤務をスタート。倉庫代わりに使っていた客間を片付け、折り畳みテーブルとキッチンデスクを持ち込んで簡易オフィスを設置。妻は職場から角度調整機能付きオフィスチェアと大画面モニターを運んで来て、ダイニングテーブルの隅に本格的な職務空間を作り上げました。コロラドから春休みで戻って来た息子は、次の学期一杯オンライン講座になることが正式に決定したため、期せずして一家三人の濃密なサンディエゴ暮らしが再開した格好になりました。
水泳部の厳しいトレーニングのおかげで全身筋肉になった18歳の息子は、まるである日突然座敷犬として飼われ始めた猟犬のように、膨大なエネルギーのやり場に困っています。仕事中に度々ノックしてはドアを開け、そっと入って来てiPhoneを差し出し、私の右耳にAirpodをはめ込んで面白動画を見せ、クスクス笑いながらこちらの反応を窺うティーンエイジャー。
「あのね、何度も言うけど一応仕事中なんだよ。」
「あ、ごめん。でも面白いでしょ、これ。」
社会に出てから三十余年、正式に自宅勤務を体験するのはこれが初めてです。通勤時間が無くなったのでその分余計に眠れるし、勤務体制はフレキシブルに調整出来る。その気になればシエスタなんかも挟み込める。そんなプラス面を数えていたのに、結局いつもより長時間働いていたりする私。
「ほら、私がリモートワークをしたいって申し出た時、いずれはそういうワークスタイルが標準になるだろうから、君がその先駆者としてノウハウを積み上げてチームメンバーと共有してくれって言ってたでしょ。」
電話の向こうでブリトニーが、過去の会話を再現します。あ、確かにそんな話したな、と薄っすら記憶が蘇ります。
「そんな未来が、意外に早く到来したなって考えてたの。」
私も含めて16名のチームが全員、自宅からテレワークをしている現実。これがあと数カ月続けば、今度は元に戻す時にストレスを感じるかもな、とふと思います。
前日に人事部のシャリーンがマネジャー達を集めて電話会議した際、
“This is an uncharted territory.”
という表現を使っていました。Uncharted は「海図の無い」という意味なので、
“This is an uncharted territory.”
「これは未知の領域よ。」
ということですね。コロナウィルスのために全世界が激震している現実を捉えてそう言ったのでしょうが、「無期限の総員自宅勤務」という事象ひとつとっても、未知の領域であるであることは間違いありません。ブリトニーの婚約者は空軍勤務なのですが、やはり自宅待機を命ぜられているとのこと。
「基本的には何もしてないの。なのに毎朝6時半に起きて、制服に着替えて7時の点呼に備えてるのよ。」
「え?でも出勤しないんでしょ。」
「そうなの。でもビデオ会議で全員顔を見せて、点呼を取るのよ。それが終わると制服脱いでまたパジャマになって、ベッドに戻るの。正直、馬鹿げてると私は思うんだけど。」
大笑いした私は、我慢できずにコメントします。
「そんなのさ、パジャマに上着羽織って前のボタンだけ締めときゃバレないでしょ。」
すると、待ってましたとばかりにブリトニーが応えます。
「もちろん私もそう言ったわよ。そしたら、いつ抜き打ちで立たされて全身チェックされるか分からないじゃないかって言うの。」
な~るほど~。ばっかばかしい~。軍人たちも、「未知の領域」でもがいてるんだなあ。