「最近どうしてるの?」
「今はダラスにいるの。来週はサンディエゴに戻ってるから、ランチ行かない?」
先週後半に交わした、同僚マリアとのテキスト・メッセージです。え?なんでテキサスに?
月曜の昼前、ビルの一階ロビーで待ち合わせ、近所のスイーツ系レストランExtraordinary(エクストラオーディナリー)へ。
「どこまで話したっけ?」
歩き始めるや否や、勢い込んで近況報告を始めるマリア。所属部署の解体決定で解雇を予告されたが、ボスのエドが奔走した結果、ロスのR氏に当面の居場所を約束してもらった。エドとエリカは別の落ち着き先が決まっている、というところで話が終わっていました。
「それで、その後どうなったの?」
なんと、当のR氏がどんなに連絡しても返事をくれず、いよいよ万事休すとなった折、エドとエリカが異動する予定の新組織のトップ、アルバートから “Potential
Position(求人の可能性あり)”というタイトルでメールが届きます。翌日からダラスで会議があるので合流せよ、とのこと。
「それだけ?」
「そうなのよ。約束めいたことは何も書かれてないの。」
レストランに到着して着席し、彼女はBLTサンドイッチ、私はポルタベッラ・パニーニを注文します。
「朝一番の飛行機でダラス支社に駆けつけたの。遅れたらどうしようって不安で、前の晩は眠れなかった。それから二日間、緊張でほとんど寝つけなかったわ。最終日は頭痛と吐き気でもう死にそうだった。」
「で、どんな仕事だって?」
「そこなのよ!」
一人で何足もの草鞋を履くアルバートは、北米のリスク・マネジメントの他、南米エリアの組織づくりも担当している。ブラジルやアルゼンチン、コロンビアなどの国々で展開するプロジェクトのコントロールが課題なのだが、今のところたった一人でこれに当たっている。遅れているIT環境の整備や人事管理のシステムづくりが喫緊の課題なのだが、本社のサポート態勢は不充分で動きが鈍く、なかなか前に進まない。
「なんかイライラした口調で、そういうことをただただ喋るのよ。あれもやらなくちゃいけない、これもやらなくちゃいけないって。だ・か・らぁ、私の仕事はあるんですかぁ?って何度も聞きそうになったわ。」
「そういう背景をしっかり知らせた上で、俺の補佐をしてくれって言おうとしてたんじゃないの?」
マリアと話している最中も、ひっきりなしに携帯のバイブレーションが作動し、幾度となく席を外すアルバート。己の多忙さをイヤというほどマリアに見せつけた後、震えるスマホの液晶画面に目をやった彼が、
「この電話は一緒に出てくれ。」
とスピーカーフォンをオンにします。そして、コロンビアの重役とスペイン語で会話をスタート。
「それまで一度たりとも、私のスペイン語能力を確認しようともしなかったのよ。かなり大事なポイントのはずでしょ?そもそもスペイン語が出来なかったら南米の仕事なんて無理なんだから。何で聞かないのかしらってずっと思ってた。」
電話の相手は猛烈な早口の巻き舌で、しかも話題がワープを繰り返すために発言の意図を理解するのが困難なタイプだったそうです。集中力を高めて電話に耳を近づけ、落ち着いて受け答えしているうちに、「あ、これはテストなんだ!」と気づいたマリア。語学の能力レベルを本人に尋ねるのではなく、いきなり実戦に送り込んで様子を見る。考えてみれば、これが一番確実な実力診断です。
そうしてつつがなく電話会議を終え、この試験にパスしたことを確信したマリア。ところが、その後どんなに待っても肝心のポジションに関する説明がありません。え?仕事くれるんじゃなかったの?と一層困惑する彼女。そしてそのまま会議は終了時刻を迎えます。
「そうだ。パスポートは更新してるか?」
別れ際、思い出したように尋ねるアルバート。最近更新したばかりだ、と答えるマリア。
「ブラジルのビザ(査証)はあるか?」
そんなもの、あるわけないじゃん。
「ロスのブラジル領事館へ行ってビザ取っとけ。」
「おおっ!それはもう当確でしょ!」と私。
「でしょ。私もそう思いたいところだったけど、ポジションの名前も具体的な職務内容も、結局一切説明無しだったのよ。」
なるほど。それは確かに不安だな…。
「アルバートとの打ち合わせが終わった後、人事と電話会議があったの。」
職を解かれる際の、エグジット・インタビュー(離職時面接)です。社員が辞職する際に執り行われる面接ですが、「部署解体による一斉解雇」という今回みたいな特殊ケースでもやるんだな、というのがオドロキでした。
「これまでの長年の貢献に感謝します、なんていうお決まりの儀式の後、何か質問はありますか?って人事の担当者が言うから、来週からタイムシートにどのコードを記録すればいいんですか?って思い切って聞いてみたのよ。この時点では、まだ本当に先が見えてなかったの。」
確かに、アルバートから正式オファーを受けたわけじゃないので、何言ってるの?タイムシートの心配なんか無用でしょ、あなたは解雇されたのよって苦笑されてもおかしくない場面です。
「南米地域部門のチャージ・コードを、メールで送りますね。」
という回答を聞いた時、思わず拳を握り締めて「イエス!」って心の中で叫んだわよ、というマリア。
「やったね!これで間違いなく正式決定じゃん!」
「有難う。ようやく普通に呼吸出来るようになったわ。」
食事が終わって精算の段になり、
「ここは僕のおごりだよ。」
と請求書が載せられたトレイを掴むと、え?なんで?と純粋に不審な表情を浮かべるマリア。
「だってお祝いでしょ。」
「あ、そうか!」
「君のこと、結構心配してたんだぜ。ほんとに良かったよ!」
いつもあっけらかんとして、どんな苦境も「蛙の面に水」とやり過ごすタイプの彼女が、緊張で「死にそうに」なっていたなんて想像がつきません。なんだか愛おしくなりました。
それにしても、彼女の上司になるアルバートの曲者ぶりはなかなかのものです。彼のスケジュールは数週間先まで隙間なく埋められていて、常に複数の仕事を同時にこなしている。恐らく相当な切れ者なのだろうが、コミュニケーション能力に関してはとても褒められたもんじゃない。なすべきことは瞬時に判断出来るものの、それを実行に移す段取りになるとてんで役に立たない。
それにしても、彼女の上司になるアルバートの曲者ぶりはなかなかのものです。彼のスケジュールは数週間先まで隙間なく埋められていて、常に複数の仕事を同時にこなしている。恐らく相当な切れ者なのだろうが、コミュニケーション能力に関してはとても褒められたもんじゃない。なすべきことは瞬時に判断出来るものの、それを実行に移す段取りになるとてんで役に立たない。
“He’s an idiot savant.”
「彼はイディオット・サヴァンよ。」
え?なんて言ったの?と聞き返す私。イディオットが「馬鹿、まぬけ」なのは分かります。問題はサヴァン。初耳の単語です。
「特殊分野には滅茶苦茶秀でてるんだけど、一般人が当たり前に出来るようなことがまるで駄目、ってタイプなのよ。」
彼女がスマホを取り出して検索したところ、これは映画「レインマン」に出て来た自閉症患者に顕著な傾向で、電話帳をまるまる一冊暗記出来るなど特殊な才能を持つ知的障害者のこと、と書いてありました。
「う~ん。この説明の通りだとしたら、アルバートにはぴったり当てはまらないかも。でもとにかく、彼は普通じゃないのよ。」
彼女が言いたかったのは、こういうことですね。
“He’s an idiot savant.”
「あれは紙一重の天才なのよ。」
会議の後半でようやくつかめて来たのは、彼が必要としているのは指示待ち人間でなく、問題を察知して勝手に動き、自分でさっさと解決してくれるアシスタントなのだ、と。
「今まではエドやエリカに何でも相談して来たけど、これからは私ひとりで解決策を考えなきゃならないわ。大変だけど、そうと分かればかえって気が楽よ。」
アルバートから救いの手が差し伸べられるのを待っていたけど、実は彼の方が助けを必要としていた。もともと彼女は極めて独立心旺盛な人なので、こうして暴れ回る自由を与えられたことで、その実力を存分に発揮できるかもしれません。
オフィスのビルに戻り、レストランに近い通用口から電子キーを使って入りました。右へ行くと私の階、左にはマリアの階用のエレベーターホールがあります。じゃあね、と言ってマリアが歩き始め、またすぐに立ち止まって振り返りました。
「ランチありがとね!」
「どういたしまして。本当におめでとう!」
と手を振る私。すると彼女は、右手の指を全部ぴんと伸ばして唇につけた後、「ん~んまっ!」と言いながら投げキッスをくれました。
デスクへ戻って仕事を再開し、暫くして同僚クリスティーのところへ行きました。
「イディオット・サヴァンって、どんな人のこと?同僚や上司のことをそう表現するのは不適切?」
すると彼女は、映画「レインマン」の例を持ち出し、ネットに出ていたのと同じ説明をしてくれました。Savant(サヴァン)は頭の良い人のことを指すけど、Idiot(イディオット)で引っ掛かる人はいると思うから、不用意に使うと怒られるかもしれない。
「でもね、ここで働く人のほとんどが、実際かなりの程度イディオット・サヴァンだと思うわよ。私なんて、数字になるとからっきし駄目だもん。」
彼女は重要なプロジェクトを十数件担当しており、その分野では広く知られた凄腕です。しかし財務の話になると、途端にポカンとしてしまうのです。だからこそ、我々のような専門家の助けが必要になるのですね。
イディオット・サヴァンとアシスタント。博士と助手。ボケとツッコミ。そうだ、いいコンビが組めて初めて、世界はうまく回り出す。頑張れマリア、未来は明るいぞ!