水曜の夕方、向かいの席からシャノンが上体を斜めに乗り出して声をひそめました。
「ちょっと話せない?」
二人で近くの会議室へ移動し、ドアを閉めます。
「テイラーのことなんだけど…。」
先月末にチーム入りした新人社員テイラーの様子がどうも気になる、というシャノン。数カ月だけ先輩社員のアンドリューに過去四週間面倒を見させていたのですが、彼と話していない時のテイラーが一体何をしているのか、アンドリューでさえも分からないらしい、というのです。
「無表情でコンピューターに向かって座ってて、誰とも話さないでしょ。思い詰めているようにも、無関心にも見える。とにかくなんだか覇気が無いのよね。」
面接の際にビリビリ伝わって来た、圧倒的なまでの彼女のエネルギー。今ではすっかり落ち着いてしまった。これは何のサインだろう?もしかしたら、働き始めてみてこれは自分の探していた仕事じゃないと悟ったのかもしれない。だとしたら早いうちに手を打った方がいいんじゃないか?
「驚くような話でも無いんだけど、実は僕も同じことを考えてたんだ。」
と私。入社前と比べ、まるで別人に変貌してしまったテイラー。何が彼女をここまで変えてしまったのか?初日のオリエンテーションで人事から何か吹き込まれたとか、上司である私のちょっとした一言に人知れず傷ついてるとか。勘繰り始めると、色々原因が考えられます。
「入社直前に、長く付き合ってた彼氏と別れたとかさ。」
と冗談半分に投げかけると、
「そういうのだったらまだいいんだけど…。」
と心配顔のシャノン。
「分かった。明日の朝、ちゃんと話してみるよ。懸念は早めに解消しといた方がいいからね。」
そして木曜の朝、彼女を会議室に呼んで直接対話をすることになったのです。重大な意思決定を迫られるような結末も想定出来る場面ですが、自分でも意外なほどニュートラルな気分で臨めました。というのも前日の火曜日、私の物の見方に大きなインパクトを与える事件があったのです。
話は三年前にさかのぼるのですが、家族でカナダのナイアガラ観光を楽しんだ際、トロントでThe Distillery History Districtという再開発エリアを歩きました。その一角に小さな劇場があり、エントランスの窓越しに四枚のイラストポスターが見えたのです。突然、その中の一枚に釘付けになった私。何故か目が離せず、足がすくんだような状態になりました。
暗い青緑色の部屋。全裸の女性がベッドでうつ伏せに横たわっている。何故かベッドの底すれすれまで浸水していて、彼女の左人差指が水面にかすかな波紋を作っている。右手は柵状ヘッドボードの一本を握っている。その顔に表情は無く、彼女の想いを窺うことは難しい。
一体この女性の身に何が起こってるんだろう?洪水なら早く逃げなきゃいけないけど、落ち着いて水に触れているところを見ると、ひどく切迫した状態でもなさそうだ。それにしても、どうしてこんなに無表情なんだろう?何を考えてるんだろう?
妻子に先を急がされたのですが、「もうちょっと見たいから」と、暫くその場で佇んでいた私。この日以来、私の脳裏にはずっとこのミステリーがひっかかっていました。「あの女性の身の上話を聞いてみたい」、と。
それが先週末、ひょんなことからこのイラスト作家のウェブサイトを発見。遂に謎解きの手がかりが得られるかもしれない!と喜び勇んだのでした。ところがところが、この人の作品を百枚近く閲覧した後、一層混乱している自分に気付いた私。なんと、このBrian Rea(ブライアン・レア)という作家の描く人物のほとんど全員が、完璧なまでの無表情なのです。カップルと見られる男女が額をくっつけ合っているイラストですら、幸せ一杯の二人が愛を確かめ合っているのか、はたまた辛い別離の瞬間なのか読み取れない。う~ん。ゾクゾクするほど好きだぞ、この世界。
週末を彼の作品鑑賞に費やした翌日月曜、ブライアンにメールを書くことにした私。トロント訪問以来、三年間も謎が解けないこと、彼の作品群がいたく気に入ったこと、無表情なキャラクターに翻弄される愉しみを味わっていること、などを綿々と綴ったのです。ま、有名作家の表紙デザインも手掛けるような売れっ子イラストレーターにこんなメールを書いたって、読まれもしないだろうけどね…。
ところがそんな予想を裏切って、翌日火曜の午後、仕事中に返信が届いたのです。私の感想がとても嬉しかったというお礼の後、例のイラストの裏話を丁寧に解説してくれるブライアン。当時トロントで上演されていた演劇の一幕が、ある娼婦の物語で、彼女が陥っていた「溺れてしまいそうな」ピンチを表現していたのがあの床上浸水だった。自分の描く人物に表情が無いのは意図してやっていることで、漫画でよく見る大袈裟な笑顔や泣き顔は描かないようにしている。良いイラストというのは、観る人に自由な解釈を促すものだ、と。
なるほど。これで合点が行きました。彼のイラスト一枚一枚にそれぞれ何分間も見入ってしまうのは、そういう理由だったのか…。
「イラストの中の、バス停に立つ人やビーチで砂遊びをしている人のことを時々じっくり考えてみるんです。その顔に表情は無い。でもね。」
“I'm sure in those instances those people are thinking their
biggest deepest thoughts of their days.”
「そんな瞬間にもこの人たちは、きっとその日一日の内でもとびきりでかくて深い想いを抱いているに違いないって思うんです。」
“That's what I'm
trying to capture- the simplest moments of our lives, and how grand those
moments can be.”
「それこそが、僕が切り取ろうとしているものなんです。極めて些細な人生の一コマが、物凄く大事な瞬間かもしれないってね。」
思わず椅子から立ち上がり、窓の外のサンディエゴ湾に目をやる私。まぶたがじわっと熱くなっていました。
そうだ。誰かが胸の内にどんな想いを秘めているのかなんて、簡単には分からないものなんだ。たとえ顔が笑ってたって、同時に怒りや悲しみを抱えていることだってある。人の感情なんてものは深く入り組んでいて、「シアワセか不幸か」なんて具合に整理出来るものじゃない。きっとあのイラストの女性だって、実入りの良い仕事でそれなりに潤っていて毎日楽しいけど、このまま続けたら自分の人生はどうなっちゃうのか、という不安にも苛まれているのだ…。
ブライアンの返信によって、「人の心」という遠大な宇宙空間にふわりと投げ入れられた私。今この瞬間、世界中に生きる一人一人の中に大きくて深い想いが息づいているのだと考えるだけで、胸が躍るじゃないか…。
そんな感じで迎えた、木曜の朝でした。
「正直に言うね。面接の時に君から伝わってた熱い気持ちが、この四週間感じられないんだ。僕もシャノンも、ちょっと心配になってる。この仕事についてどう思ってるのか、率直なところを聞かせてもらいたいと思ってね。」
単刀直入に切り込んだ私。ぽかんと口を開け、あっけにとられた様子のテイラーの両目が、みるみる赤くなって行きます。
「そんな印象を持たれてたなんて、思ってもみませんでした。悔しいです。」
最初の三カ月は自分を無にし、出来るだけ多くを吸収するのが自分の学習スタイルで、ある程度まで学んで自信が付いたら、突然はじけてやかましく喋り始めるのが常なのだ、というテイラー。アンドリューと会話していない時はオンラインのトレーニングコースなどで、ひとり静かに学んでいる。まだ分からないことだらけだけど毎日が刺激的で、ワクワクしている、と。今朝も一緒に住んでるお母さんから、仕事どうなの?まだ一度も不平不満を聞いてないけど、と尋ねられ、楽しいからじゃん、と答えた。前の仕事は初日から文句言い続けだったもんね、と笑われたのだと。
「もっともっと学んで早く一人前になりたいです。どうすれば良いですか?」
と真剣なまなざしを向けるテイラー。
無表情の向こうで燃え盛るとびきりでかくて深い想いが、ずどんと胸に刺さりました。