2017年2月19日日曜日

アメリカで武者修行 第37話 タフにならなきゃな

オレンジ郡のプロジェクト獲得に向けて始動した、我が社のプロポーザルチーム。上司のエドから「千尋の谷に」突き落とされてスケジュール作成担当に納まった私ですが、まだまだヨチヨチ歩きです。記念すべき第一号のプロポーザルは何とか無事に提出しましたが、その疲れを癒す間も無く、二件目のプロポーザル作業がスタートしました。まるで私が引き続きチーム入りするのが当然であるかのように、印刷されたRFP(リクエスト・フォー・プロポーザル)を手渡すエド。

「来週月曜にロングビーチ支社へ行ってくれ。支社長のエリックが君に会いたいそうだ。彼は今回の新規顧客開拓にかなり本腰で、その辺の背景を今の内に知っておくのもいいだろう。この機会に、他のチームメンバーとも顔を合わせておくといい。」

エドのオフィスを出た後、建物の丁度反対側に位置するランチルームへと向かいます。水場の脇の壁に据え付けられた救急棚の扉を開け、Extra Strength(超強力)と銘打たれた鎮痛剤の小袋を取り出します。過去数週間というもの、強烈な頭痛が慢性化していて、この時も十秒と目を開けていられない状態でした。マグカップの水で二錠を喉に流し込んだ後、ランチテーブルの隅で両腕を交差させ、額を載せた格好で薬効が現れるのを待ちます。

ふと足音に気が付いて顔を上げると、ぼやけた視界の向こうに現れたのはケヴィンでした。
「どうした?具合悪いのか?」
「うん、頭がひどく痛んでね。睡眠不足が続いてるんだ。」

机に両肘をついて掌の土手の部分で目頭を押さえつつ、厳しい現状を説明しました。高速道路設計プロジェクトの残務処理に加え、未だに馴れないハイリスク・プロジェクトのレビュー。更にはスケジューリングを独学しつつ、プロポーザルの締め切りと闘う日々。そして週末はPMPの受験勉強。「初めてづくし」で死にもの狂いだった前職に較べても、負荷は増している。頭痛が恒常化し、鳴りを潜めていた持病の腰痛も戻って来た…。

気が付くと私は、ケヴィンをそこに立たせたまま延々と弱音を吐き続けていたのでした。暫くしてようやく沈黙に気付き、はっと我に返って顔を上げます。彼は、同情とも侮蔑とも取れる微妙な表情を浮かべて私を見つめています。それから、意を決したように口を開きました。

「シンスケ、色々重なって大変なのは理解出来る。でも、散々な思いをした末にやっと手に入れた仕事じゃないか。キツイのは分かるけど、ここはタフにならなきゃな。」

幾多の苦境をともに切り抜けて来た、いわば戦友のケヴィン。中途半端に慰めるのではなく、あえて叱咤で私を救おうとする彼の気持ちに、胸が熱くなりました。マグカップの水を勢いよく飲みほして立ち上がり、仕事に戻る私でした。

翌月曜。ロングビーチは支社とは言え、同じビルに本社機能も入っており、いわば我が社の総本山です。サンディエゴから車で約2時間と教えられましたが、安全のため朝5時にアパートを出発。途中三度、高速道路のレストエリアやスターバックスの駐車場で仮眠し、結局三時間かけて8時10分前に到着しました。港湾地域の再開発エリアにそびえ立つ、銀色のツインタワー。その片側の最上階から三つくらいのフロアが、我が社のスペースだと聞かされていました。ビルの谷間からは、海を背景に立つカラフルな観覧車が望めます。牧場の脇に佇むちっぽけな平屋オフィスに勤務する私には、ややショッキングな職場環境のギャップでした。

女性秘書に促され、支社長室の応接セットで待つこと15分。早朝のミーティングが長引いちゃったよ、と謝りながら入って来たエリックは、予想を大きく裏切る容姿でした。

身長およそ185センチ、濃い緑色のボタンダウン・シャツにノーネクタイ。若木の幹を思わせる長い脚に、ぴったりフィットしたブルージーンズ。骨董品のような艶消しゴールドのベルトバックルは、ちょうど私のみぞおちの高さ。踵に拍車こそ付いていませんが、カウボーイ御用達とも思える本格的レザーブーツを履いています。微かに腰をかがめて差し出す握手の手は力強く、しかし優しい。日焼けした顔をほころばせ、今回のプロポーザルへの貢献に対する感謝を述べます。そのハスキーボイスは深く甘く、大抵の女性ならたちどころに彼のファンになってしまうでしょう。エルビス・プレスリー風のもみあげに僅かながら白い物が混じってはいるものの、どう見てもまだ40代。彼はこの要職をこなしながら、週末になるとバスケットボールや水泳を楽しみ、子供のサッカーチームのコーチもしていると言います。その血色良い笑顔を見ているうちに、ゾンビのような自分が急に恥ずかしくなって来ました。

「オレンジ郡は、ここロサンゼルス郡と隣り合わせだろ。いわば我々の地元なのに、これまで全く仕事の手がかりが無かったんだ。数か月前、うちのジャックが大学時代の同級生とばったり会ってね。その男がオレンジ郡でPMを勤めているということから、この話が始まったんだ。とにかくプロジェクトをひとつ獲って成果を上げれば、クライアントに我々の実力を分かってもらえる。そして第二、第三のプロジェクト獲得に繋げて行く。最初の一本が鍵なんだ。ここは何としても突破口を開きたい。君達の頑張りにかかってるんだ。頼んだぞ。」

スケジューラーとしては駆け出しもいいところの私には、どう考えても過剰な期待。いっそのこと今の内に力不足を告白して辞退しちゃった方が会社のためかもしれないぞ、と弱気がよぎった時、彼がこう付け加えたのです。

「プリマベーラでスケジュールが作れる社員は、南カリフォルニアに今、エドと君しかいないんだ。エドは多忙過ぎてプロポーザルに参加する余裕が無いだろ。今回のクライアントは、プリマベーラ・スケジューラーの参加を必要条件に挙げている。ということは、君無しではこの戦いに勝ち目は無いってことだ。疑いも無く、君は最重要メンバーのひとりなんだよ。」

これで逃げ道は閉ざされました。エリックは私を隣の部屋に導き、窓際のデスクで仕事していた男性に紹介しました。

「今回のプロジェクト獲得作戦の中心人物だ。わざわざウィスコンシンから転勤してもらったんだよ。」

それまでに電話では何度か喋っていたものの、これがプロジェクト・マネジャーのジムとの初顔合わせでした。おそらく五十半ば。むき卵のように光沢のある禿頭とは対照的に、豪邸の生垣みたいに整然と刈り込まれた厚みのある口ひげと顎鬚とで、顔の下半分が覆われています。眼鏡の奥の目尻に刻まれた深い笑い皺は人柄の良さを物語っていて、まるで有名なお寺の人気和尚だなあ、と心の中で袈裟を着せていました。

次のミーティングがあるから、と足早に立ち去るエリックの背中を見送った後、ジムに尋ねてみました。
「ウィスコンシンから転勤って、本当ですか?お一人で?」
「いや、夫婦で引っ越して来たんだよ。娘二人はほぼ手を離れていて、身軽なんだ。」
「でも、はるばるカリフォルニアに住まいを移したのに、この先いつまでも新規プロジェクトが獲れなかったらどうするんです?」
ついさっき初めて会ったばかりの相手に対して、この質問はいくらなんでも不躾だったな、と後悔がよぎったその時、
「そりゃさぞかし居心地が悪いだろうね。クビにされるか、尻尾を巻いてウィスコンシンへ逃げ帰るかだな。」
と軽く一笑するジム。
「じゃあ絶対に勝たなきゃいけませんね。」
失言を挽回しようと、思わず過剰に意気込む私。
「そうだね。頼りにしてるよ。」

この後、ジムと机を並べてラップトップを出し、スケジュール作成に取り掛かりました。今回のプロジェクトの内容を噛んで含めるように説明する彼の声には、一言一言を心から楽しんでいるかのような長調の旋律があって、技術的な固い内容でも脳が喜んで吸収して行きます。
「細部まで注意の行き届いたスケジュールが示せれば、我々がプロジェクトの進め方を完全に把握しているってことをクライアントにアピール出来る。前回の君のスケジュールはすごく良かった。今回も同じ緻密さで頼むよ。」
「もちろんです。」
「そうそう、そういえばエリックから聞いたんだが、PMP試験を受けるんだって?」
「あ、きっとボスのエドから伝わったんですね。」
「クライアント側のキーメンバーは全員PMP保持者なんだ。うちのチームが誰もこの資格を持ってないというのは、我が社の深刻な弱点だ。君が合格すれば、プロポーザルの組織図上、君の名前の横でPMPの三文字が輝くことになる。我々の勝率は大幅に上がるだろう。テストはいつ?」
「十月です。毎週末、試験勉強してます。」
「そうか、頼んだぞ。」

それから数時間、ジムに確認を求めつつ、しこしことスケジュール作成を続けました。何度も睡魔に襲われ、とうとうコンピュータ画面がぼやけて来た夕刻、もうそろそろ体力の限界だな、と感じます。さっさと切り上げて帰宅の途に着かないと、高速で事故を起こしかねないぞ、と。窓の外は急速に暗さを増しています。

その時ジムが不意に立ち上がり、部屋を後にしました。間もなく戻って来た彼がジャージ姿なのに驚いていたら、ニッコリ微笑んでこう言いました。
「道が混むだろうから、君はそろそろ帰った方がいいんじゃないか?この続きは電話でやろう。」
そしてこう続けます。
「僕は疲れたから、ちょっと走って来るよ。」
笑顔でサヨナラを言い、エレベーターホールへと向かうジム。

疲れたから、走る?

このフレーズが、暫く私の頭蓋骨の内側をゆったりと回遊していました。「疲れたらから帰って寝る」ではなく、「走る」。そんなセリフ、自分の口からは絶対に出ません。和尚さんみたいだなんて勝手にイメージしていたけど、とんでもない勘違いだった。それに、「ちょっと走って来る」ということは、戻ったら仕事を続けるという意味だよな。一体どういう体力してるんだ、あの人?

夜の高速。サンディエゴに向かって車を走らせながら、自分に言い聞かせていました。身体が辛いのは仕方ない。慣れない仕事をしてりゃ当然だ。でも気持ちで負けてたら駄目だ。どんな困難な挑戦も、笑って乗り越えるんだ。こんなところで弱音を吐いてはいられない。タフにならなきゃいけないぞ、と。


2017年2月18日土曜日

Inundated イナンデイテッド

このところ、カリフォルニアは異例の大雨に見舞われ、各地で道路や家屋の浸水被害が報告されています。先日は、全米一の高さを誇るオロヴィルダムがまさかの越水、という未曽有の事態にまで発展。実は我が家も、寝室のカーペットがフレンチドアからの浸水でビチョビチョです。昨夜は、古いTシャツをドア下の隙間に詰めるという応急の洪水対策を講じて就寝しました。

さて、今週月曜は記念すべき日でした。我が社の新PMツールが、全米で一斉に使用開始されたのです。南カリフォルニアのエンドユーザー達は、質問があれば所属する支社のスーパーユーザー達に尋ね、彼等が答えられない場合は地域のスーパーユーザーである私にこれを上げる。私が答えられない場合は更にアメリカ・チームへ上げる、という段取りになっています。月曜、火曜は不気味なほど静かだったのですが、水曜日の朝から想定外の事態が急増し、各地のスーパーユーザー達からの質問は毎分一件くらいのペースに跳ね上がりました。既に通常業務で目一杯の私に、これはなかなかシビれる試練でした。

口頭、電話、Eメールに加え、今年に入って我が社が導入したシスコ社のジャバー(Jabber)というテキスト・ツールを通した質問が、一斉に襲い掛かって来ます。これを一件ずつ、丁寧に、そして確実に解決していく。圧倒的多数の敵を相手にカンフー技で奮闘するジャッキー・チェンさながらです。今回痛感したのが、ジャバーというツールの恐るべき破壊力でした。画面上、質問者の数がどんどん増えて行くのが見えるのです。ようやく一人倒しても、新たな敵が二人、三人、と加わっていく。このビジュアルから受ける心理的ダメージはなかなかのものでした。なんだか苦しいなあと思ってよくよく考えたら、暫く呼吸を止めていたなんてこともしばしば。

木曜の午後、給湯室へコーヒー補給に行き、大きな深呼吸をしていたら、同僚クリスティーがやって来ました。そしてこう尋ねたのです。

“Are you inundated with questions?”
「質問でinundatedになってる?」

これ、最近になって電話会議などで頻繁に聞くようになった英単語です。発音は「イナンデイテッド」ですが、最後のドはほぼ無音なので、「以南泥て?」みたいに聞こえます(アクセントは以南に)。ラテン語由来だそうで、undaが波、inundareで「波の中へ」となり、inundatが「洪水になって」という意味になるのだと。“Inundated with ○○で、何かに圧倒されている状態を指すのですね。

“Are you inundated with questions?”
「質問殺到してる?」


語感と語意が全く繋がらないパターンで、憶えにくいことこの上ないのですが、ここのところの大雨や洪水情報とも重なって、きっちり頭に刻まれました。

2017年2月16日木曜日

Excuse my French フランス語で失礼

先週末は、一家泊りがけでオレンジ・カウンティーへ出かけました。息子の所属する水球クラブチームがトーナメントに出場するということで、送り迎えプラス応援が我々夫婦の任務。日本語補習校のクラスメートでもある彼のチームメートK君も加えての四人旅。広域に点在する複数の競技用プールを使っての大会でした。前の試合の勝敗次第では何マイルも離れたプールまで移動しなければいけないので、保護者による送迎サービスは不可欠なのです。

午後一番、最初の会場の車寄せに停車すると、30メートルほど離れたフェンスの向こう側、乾いた冬空をバックに、ホイッスルと歓声と激しい水音がこだましています。

「二コラ!」

後部座席の窓を開けて叫ぶ息子に、濡れた髪を撫でつけながら会場を出て来た仲間が拳を突き上げて、「勝ったぜ!」と応えます。息子のクラブには百人を超えるメンバーがいて、今回は4、5チームに分かれて参加しているようなのです。

少年たちを路肩で降ろしてから駐車場に車を停め、妻とプールまで歩きます。三つの階段席(ブリーチャー)は既に保護者で一杯。次の試合が始まるまで、その谷間に立って席が空くのを待つことにしました。激しい水しぶきの中で荒々しく肉体を跳ね躍らせる若者たちの姿を眺めながら、羨望に似た感動を覚えます。まるで縄張りを争って死闘を繰り広げるシャチの群れ。出張中に誰かから頂いた風邪をこじらせ、土曜の朝まで三日間寝込んでいた病み上がりの中年には、真冬に屋外冷水プールで闘う選手たちの爆発的なエネルギーが眩しかったのですね。

さて、息子の出る二つ前の試合が終了し、保護者がどっと立ち上がりました。それっ!とばかりに妻と観覧席を陣取ります。二人の座席を確保してからプールサイドのトイレで用を足して戻ると、何故か水面が静まり返っています。

「悪い言葉を使った選手がいたから、審判が一旦試合を止めて注意してたの。」

と妻。

“Are you fxxkin’ blind?”
「てめえ今のが見えてなかったのかよ?」

審判にそんな暴言を吐けば、そりゃお目玉食らって当然でしょう。でも、この種目は格闘技すれすれの接触プレー連発なので、ただでさえ血の気の多い年代の男子たちが試合中に熱くなるのは、充分理解出来ます。

そういえば先日、帰宅した息子が水球仲間の級友フランキーの話をしてくれました。彼が担任の女性教師のことをFxxking(Fワード)付きで表現したというエピソードを笑いながら話す息子を、すかさずたしなめる私。

「友達同士ならともかく、親と喋る時にはそういう言葉遣いを慎んでくれるかな。何でも話せる間柄であっても、節度は大事だと思うぞ。」

「ごめんなさい。」

さてこの「Fワード」ですが、実は先日、本社副社長のパットと電話している時にも飛び出しました。想定外の障害が次から次へと現れ、仕事が思うように進まない現状に苛立つ彼女が、ある事件をとらえてこう言ったのです。

「あのファッキンXXXXが!」

そして間髪入れずにこう付け足すパット。

“Excuse my French.”
「フランス語で失礼。」

これは面白い表現だと思い、すかさずノートに書き留める私。思わずFワードを口走った際に、「聞き手に馴染みのない単語を使ってしまったことを謝る」態でふざけて使うフレーズのようです。

でも、どうしてフランス?

ネットでちょっと調べたところ、かつてイギリス人が無作法の罪をフランス人になすりつけたことから来ているのではないか、という説を発見。たとえばTake French leave(フランス式のさよならをする)というのは、主催者に挨拶もせずパーティーや集会を去ることを指すし、French Kiss(フレンチキス)は舌を使ったディープキスの意味。French Disease(フランス病)は梅毒のこと。この流れからすれば、Fワードをフランス語だと言ってとぼける態度も納得です。フランス側からすれば迷惑な話ですが、よくよく考えてみればプラスにも受け取れる偏見だと思います。だって、性やマナーに関して自由で奔放なお国柄だという決めつけは、ある意味羨望とも取れるのですから。お行儀の良さを取り柄としている日本人の私は、ひどい言葉を口走ったり気の向くままに行動したりする人に、ある種の憧れすら抱いてしまうのです。冬のプールで暴れまわる、若い水球選手たちに見惚れるように。

とにもかくにも、卑猥な英単語が思わず口をついて出てしまった時は、このフレーズで締めるのが良いでしょう。

“Excuse my French.”
「フランス語で失礼。」

さて今日のランチタイム、新人のアンドリューにこの話をしたところ、彼の第一声がこれ。

「本気でかっとなってFワードを口走った人に、そんな落ち着いたフォローは思いつかないんじゃないかな。」

おいおい、若いのに随分冷静だな。


2017年2月5日日曜日

Loaner Computer ロウナー・コンピュータ

オレンジ支社へ出張しての、PMツール・トレーニング二週目が終わりました。

今回パートナーになったのは、シドニー支社出身のメイ。彼女は中国系マレーシア人。大学卒業後オーストラリアで暫く働いた後、アメリカでのポジションを与えられて移住して来ました。幼少の頃から常に学年トップの秀才だったと臆せず自己紹介する、活力あふれる小柄な彼女。30代半ばでしょうか。小さい頃は水泳の競技選手で、最近はロック・クライミングに励んでいるのだそうです。トレーニング初日を翌日に控えた日曜の晩、ホテルのレストランで打ち合わせ。

「本社の指示に従ってたら、有効なトレーニングにならないと思うの。スライドの文字を8時間読み聞かされたって、どうせ次の日にはほとんど忘れてるでしょ。ツールの使い方を学ぶんだったら、実際に使うのが一番。参加者に実践させましょうよ。」

と、彼女が大胆な変更を提案して来ます。先週と同じことをもう一週繰り返すことを思ってやや憂鬱になっていた矢先のこと。本社で取りまとめをしているシャロンが繰り返していた「全社員が同じ内容のトレーニングを等しく受けることが重要」という主張もちらりと脳裏をかすめたのですが、思わず「いいね、それやってみようよ。」と乗っかる私。

蓋を開けてみると、これが大正解。眠そうな顔の受講者などひとりもいないし、あるステップを早く終えた人が隣の社員を助けたりして、活気に満ちたトレーニングになりました。前の週に参加できなかった人が事前連絡も無く飛び入りするとか、ラップトップ・コンピュータを持っていない人が現れたりとか、予想外の事態が頻発したため、全てをスムーズに進められたわけではありません。しかしそれでも参加者はほぼ全員、

「スライドを見せられる形式の百倍以上は学んだよ。」

と、このHands-On Training(実践的トレーニング)を絶賛してクラスを後にしました。

前の週に本社からの指示通り旧態依然のトレーニングを展開したばかりの私の目に、学習効果の違いはえげつないくらい歴然としていました。

「最初からみなこういうトレーニングをするべきなのよ。受講者が眠くなるような形式を押し付ける方がおかしいわ。」

と主張するメイに、

「全ての会場にWi-Fi環境が整っているわけじゃないと思うよ。公平を期するための指示だったんじゃないかな。」

と本社の擁護を試みる私。この弁明を一瞬吞み込んだように見えましたが、

「だったらちゃんとした会場を確保することを条件にすべきだと思うの。」

と退かないメイ。正論です。

彼女と一週間過ごすうち、その強烈なキャラにじわじわと押されていくのを感じていた私。自分が群を抜いて優秀なことを自覚している人に共通する、

「誰からどんなに難しいお題を出されても鮮やかに回答してみせる」

という前のめりな姿勢がビンビン伝わって来て、何か人生に関するアドバイスでも求めなきゃいけないような気にさせられるのですね。

クラスを終える際には必ず、20人を超える受講者のフルネームと所属部署名を次々に言い当てて拍手喝采を浴びるメイ。全員初対面なのに…。

「どうやって覚えてるの?僕にはとても真似できない芸当だよ。」

と感心する私に、

「意識を集中させれば、学びの深さは無限になるの。要はフォーカスよ。」

と笑う彼女。トレーニング中も絶え間なく際どいジョークを織り交ぜ、回転の速さを印象付けます。

「それじゃ、プロジェクト名をタイプしましょう。何でもいいですよ。Build Wall(壁の建設)とか。あら、これはちょっとPolitically Correct(適切な発言)じゃなかったわね。」

もちろんトランプ新大統領の政策を揶揄しての冗談ですが、職場でさすがにこれはまずいでしょう。すると彼女はすかさずこうフォローするのです。

「オーストラリアから来たばかりで、よく分からないの。失礼。」

最終日の最終クラスを終え、さすがに疲労を隠せないメイと一緒に部屋の片づけをする私。この一週間、まるでゲスト・コメンテーターのような立場でひっそりと彼女のワンマンショーを傍観していた私。前の週にはメイン講師としてジョーク混じりにトレーニングを展開していたのに、とうとう一人も笑わせることなく終わってしまった。予想もしていなかった不完全燃焼に、ちょっとした孤独感を味わっていた私。

「あ、そうだ。ナンシーから借りてたLoaner Computer(ロウナー・コンピュータ)を返さなきゃね。」

というメイに、僕がやっておくよ、と答えます。Loanerというのは「借り物」とか「代用」という意味。ラップトップを持参しなかった参加者のために貸し出したコンピュータを棚に戻す作業を終え、ナンシーにiPhoneメールで報告した後、トレーニング会場に戻ります。

暫くして、メールをチェックしていたメイが突然笑い出しました。

「シンスケ、これどういうこと?ロウナー・コンピュータって!」

ナンシーへのメールccに彼女を含めておいたのですが、どうしてそれを読んでウケているのか分かりません。よくよく見ると、私はLoanerとすべきところをLonerと間違って書いていたのですね。

Loaner Computer レンタル用コンピュータ
Loner Compute 孤独を愛するコンピュータ

ケタケタ笑うメイに、「いや、単なるスペルミスだよ」と言い訳しつつ、最後の最後にようやく笑いを取れたことを素直に喜ぶべきかどうか、ちょっぴり悩む私でした。