オレンジ郡のプロジェクト獲得に向けて始動した、我が社のプロポーザルチーム。上司のエドから「千尋の谷に」突き落とされてスケジュール作成担当に納まった私ですが、まだまだヨチヨチ歩きです。記念すべき第一号のプロポーザルは何とか無事に提出しましたが、その疲れを癒す間も無く、二件目のプロポーザル作業がスタートしました。まるで私が引き続きチーム入りするのが当然であるかのように、印刷されたRFP(リクエスト・フォー・プロポーザル)を手渡すエド。
「来週月曜にロングビーチ支社へ行ってくれ。支社長のエリックが君に会いたいそうだ。彼は今回の新規顧客開拓にかなり本腰で、その辺の背景を今の内に知っておくのもいいだろう。この機会に、他のチームメンバーとも顔を合わせておくといい。」
エドのオフィスを出た後、建物の丁度反対側に位置するランチルームへと向かいます。水場の脇の壁に据え付けられた救急棚の扉を開け、Extra Strength(超強力)と銘打たれた鎮痛剤の小袋を取り出します。過去数週間というもの、強烈な頭痛が慢性化していて、この時も十秒と目を開けていられない状態でした。マグカップの水で二錠を喉に流し込んだ後、ランチテーブルの隅で両腕を交差させ、額を載せた格好で薬効が現れるのを待ちます。
ふと足音に気が付いて顔を上げると、ぼやけた視界の向こうに現れたのはケヴィンでした。
「どうした?具合悪いのか?」
「うん、頭がひどく痛んでね。睡眠不足が続いてるんだ。」
机に両肘をついて掌の土手の部分で目頭を押さえつつ、厳しい現状を説明しました。高速道路設計プロジェクトの残務処理に加え、未だに馴れないハイリスク・プロジェクトのレビュー。更にはスケジューリングを独学しつつ、プロポーザルの締め切りと闘う日々。そして週末はPMPの受験勉強。「初めてづくし」で死にもの狂いだった前職に較べても、負荷は増している。頭痛が恒常化し、鳴りを潜めていた持病の腰痛も戻って来た…。
気が付くと私は、ケヴィンをそこに立たせたまま延々と弱音を吐き続けていたのでした。暫くしてようやく沈黙に気付き、はっと我に返って顔を上げます。彼は、同情とも侮蔑とも取れる微妙な表情を浮かべて私を見つめています。それから、意を決したように口を開きました。
「シンスケ、色々重なって大変なのは理解出来る。でも、散々な思いをした末にやっと手に入れた仕事じゃないか。キツイのは分かるけど、ここはタフにならなきゃな。」
幾多の苦境をともに切り抜けて来た、いわば戦友のケヴィン。中途半端に慰めるのではなく、あえて叱咤で私を救おうとする彼の気持ちに、胸が熱くなりました。マグカップの水を勢いよく飲みほして立ち上がり、仕事に戻る私でした。
翌月曜。ロングビーチは支社とは言え、同じビルに本社機能も入っており、いわば我が社の総本山です。サンディエゴから車で約2時間と教えられましたが、安全のため朝5時にアパートを出発。途中三度、高速道路のレストエリアやスターバックスの駐車場で仮眠し、結局三時間かけて8時10分前に到着しました。港湾地域の再開発エリアにそびえ立つ、銀色のツインタワー。その片側の最上階から三つくらいのフロアが、我が社のスペースだと聞かされていました。ビルの谷間からは、海を背景に立つカラフルな観覧車が望めます。牧場の脇に佇むちっぽけな平屋オフィスに勤務する私には、ややショッキングな職場環境のギャップでした。
女性秘書に促され、支社長室の応接セットで待つこと15分。早朝のミーティングが長引いちゃったよ、と謝りながら入って来たエリックは、予想を大きく裏切る容姿でした。
身長およそ185センチ、濃い緑色のボタンダウン・シャツにノーネクタイ。若木の幹を思わせる長い脚に、ぴったりフィットしたブルージーンズ。骨董品のような艶消しゴールドのベルトバックルは、ちょうど私のみぞおちの高さ。踵に拍車こそ付いていませんが、カウボーイ御用達とも思える本格的レザーブーツを履いています。微かに腰をかがめて差し出す握手の手は力強く、しかし優しい。日焼けした顔をほころばせ、今回のプロポーザルへの貢献に対する感謝を述べます。そのハスキーボイスは深く甘く、大抵の女性ならたちどころに彼のファンになってしまうでしょう。エルビス・プレスリー風のもみあげに僅かながら白い物が混じってはいるものの、どう見てもまだ40代。彼はこの要職をこなしながら、週末になるとバスケットボールや水泳を楽しみ、子供のサッカーチームのコーチもしていると言います。その血色良い笑顔を見ているうちに、ゾンビのような自分が急に恥ずかしくなって来ました。
「オレンジ郡は、ここロサンゼルス郡と隣り合わせだろ。いわば我々の地元なのに、これまで全く仕事の手がかりが無かったんだ。数か月前、うちのジャックが大学時代の同級生とばったり会ってね。その男がオレンジ郡でPMを勤めているということから、この話が始まったんだ。とにかくプロジェクトをひとつ獲って成果を上げれば、クライアントに我々の実力を分かってもらえる。そして第二、第三のプロジェクト獲得に繋げて行く。最初の一本が鍵なんだ。ここは何としても突破口を開きたい。君達の頑張りにかかってるんだ。頼んだぞ。」
スケジューラーとしては駆け出しもいいところの私には、どう考えても過剰な期待。いっそのこと今の内に力不足を告白して辞退しちゃった方が会社のためかもしれないぞ、と弱気がよぎった時、彼がこう付け加えたのです。
「プリマベーラでスケジュールが作れる社員は、南カリフォルニアに今、エドと君しかいないんだ。エドは多忙過ぎてプロポーザルに参加する余裕が無いだろ。今回のクライアントは、プリマベーラ・スケジューラーの参加を必要条件に挙げている。ということは、君無しではこの戦いに勝ち目は無いってことだ。疑いも無く、君は最重要メンバーのひとりなんだよ。」
これで逃げ道は閉ざされました。エリックは私を隣の部屋に導き、窓際のデスクで仕事していた男性に紹介しました。
「今回のプロジェクト獲得作戦の中心人物だ。わざわざウィスコンシンから転勤してもらったんだよ。」
それまでに電話では何度か喋っていたものの、これがプロジェクト・マネジャーのジムとの初顔合わせでした。おそらく五十半ば。むき卵のように光沢のある禿頭とは対照的に、豪邸の生垣みたいに整然と刈り込まれた厚みのある口ひげと顎鬚とで、顔の下半分が覆われています。眼鏡の奥の目尻に刻まれた深い笑い皺は人柄の良さを物語っていて、まるで有名なお寺の人気和尚だなあ、と心の中で袈裟を着せていました。
次のミーティングがあるから、と足早に立ち去るエリックの背中を見送った後、ジムに尋ねてみました。
「ウィスコンシンから転勤って、本当ですか?お一人で?」
「いや、夫婦で引っ越して来たんだよ。娘二人はほぼ手を離れていて、身軽なんだ。」
「でも、はるばるカリフォルニアに住まいを移したのに、この先いつまでも新規プロジェクトが獲れなかったらどうするんです?」
ついさっき初めて会ったばかりの相手に対して、この質問はいくらなんでも不躾だったな、と後悔がよぎったその時、
「そりゃさぞかし居心地が悪いだろうね。クビにされるか、尻尾を巻いてウィスコンシンへ逃げ帰るかだな。」
と軽く一笑するジム。
「じゃあ絶対に勝たなきゃいけませんね。」
失言を挽回しようと、思わず過剰に意気込む私。
「そうだね。頼りにしてるよ。」
この後、ジムと机を並べてラップトップを出し、スケジュール作成に取り掛かりました。今回のプロジェクトの内容を噛んで含めるように説明する彼の声には、一言一言を心から楽しんでいるかのような長調の旋律があって、技術的な固い内容でも脳が喜んで吸収して行きます。
「細部まで注意の行き届いたスケジュールが示せれば、我々がプロジェクトの進め方を完全に把握しているってことをクライアントにアピール出来る。前回の君のスケジュールはすごく良かった。今回も同じ緻密さで頼むよ。」
「もちろんです。」
「そうそう、そういえばエリックから聞いたんだが、PMP試験を受けるんだって?」
「あ、きっとボスのエドから伝わったんですね。」
「クライアント側のキーメンバーは全員PMP保持者なんだ。うちのチームが誰もこの資格を持ってないというのは、我が社の深刻な弱点だ。君が合格すれば、プロポーザルの組織図上、君の名前の横でPMPの三文字が輝くことになる。我々の勝率は大幅に上がるだろう。テストはいつ?」
「十月です。毎週末、試験勉強してます。」
「そうか、頼んだぞ。」
それから数時間、ジムに確認を求めつつ、しこしことスケジュール作成を続けました。何度も睡魔に襲われ、とうとうコンピュータ画面がぼやけて来た夕刻、もうそろそろ体力の限界だな、と感じます。さっさと切り上げて帰宅の途に着かないと、高速で事故を起こしかねないぞ、と。窓の外は急速に暗さを増しています。
その時ジムが不意に立ち上がり、部屋を後にしました。間もなく戻って来た彼がジャージ姿なのに驚いていたら、ニッコリ微笑んでこう言いました。
「道が混むだろうから、君はそろそろ帰った方がいいんじゃないか?この続きは電話でやろう。」
そしてこう続けます。
「僕は疲れたから、ちょっと走って来るよ。」
笑顔でサヨナラを言い、エレベーターホールへと向かうジム。
疲れたから、走る?
このフレーズが、暫く私の頭蓋骨の内側をゆったりと回遊していました。「疲れたらから帰って寝る」ではなく、「走る」。そんなセリフ、自分の口からは絶対に出ません。和尚さんみたいだなんて勝手にイメージしていたけど、とんでもない勘違いだった。それに、「ちょっと走って来る」ということは、戻ったら仕事を続けるという意味だよな。一体どういう体力してるんだ、あの人?
夜の高速。サンディエゴに向かって車を走らせながら、自分に言い聞かせていました。身体が辛いのは仕方ない。慣れない仕事をしてりゃ当然だ。でも気持ちで負けてたら駄目だ。どんな困難な挑戦も、笑って乗り越えるんだ。こんなところで弱音を吐いてはいられない。タフにならなきゃいけないぞ、と。