「シンスケって、人の悪口言わないわよね。」
職場から車で五分の距離にあるショッピングモールに、小さなタイ料理屋「タイカフェ」があります。同僚のジェシカとティルゾに誘われ、週に二回程度ここでランチを取るようになりました。ジェシカというのは、構造力学専門の若手社員。高速道路プロジェクトの終了間際にチーム入りした後、今の支社に転属した仲間です。彼女がティルゾとゴシップに花を咲かせるのをぼんやりと聞きながら淡々と咀嚼を続けていた私は、突然の一言でハッと我に返りました。
「え?何の話?」
「シンスケの口から人の悪口を聞いたことないなあって、今気づいたの。よく考えたら私なんか、喋ってることの大半が人の噂話とか悪口よ。恥ずかしくなっちゃう。」
「うん、確かにシンスケは他人のことを悪く言わないよね。」
と、ティルゾが同調します。
「いやいやとんでもない、買い被りだよ。僕はそんな立派な人間じゃないって。」
突然二人から聖人君子のように扱われたことに、当惑する私。
「自分のことに精一杯で、他人のことを気にしてる余裕が無いだけだよ。それに二人には分からないかもしれないけど、悪口って、英語学習者にとってはとんでもなくハードルが高いんだぜ。」
思わず本音を吐露してしまいました。周りの社員が何でも軽々とこなしている脇で、毎日慣れない仕事にもがき続けてる。出来ることなら、人の悪口が言えるような境地に辿り着きたいよ…。そんな風に鬱屈していたのに加え、実はこの時、午前中に臨んだレベル2会議でのダメージが心を重く湿らせていたのです。
小会議室のテーブルに、電話を挟んでエリカと着席し、一件20分のカンファレンスコールを立て続けに3時間こなします。全米各地から、顔を合わせたこともないPM達が入れ替わり電話してきて、それぞれが担当するプロジェクトの現況を説明します。これをじっくり聞き取りつつ的確な質問を投じ、相手のリアクションから危険信号を察知して上層部に報告するのが私の役目。一段リスクの高いプロジェクトを対象としたレベル3会議では、エドやクリスが刃物のように鋭い質問の連続で相手をじわじわと追い詰めて行き、その気になれば最後まで伏せておけたかもしれない「問題の種」を易々と自白させる場面に、再三立ち会って来ました。
もちろん、新米の私にそれだけの技量が備わっているはずもなく、工期に遅れは無いか、クライアントとは上手く行っているのか、などという当たり障りのない尋問しか出来ません。当然、期待通りの回答しか得られないため、私がレビューを担当したプロジェクトは全て順風満帆、というレポートが出来上がってしまいます。これじゃ、大勢の社員の仕事を中断させてまで聞き取りをするそもそもの意味が揺らいで来ます。会議机の向かい側でノートPCを開き、静かに議事録を取るエリカに対しても申し訳なく思う気持ちが募り、何とかして一矢報いたい、と焦れていました。
そんな時、前日エドが盛んに使っていたキーワードが蘇りました。彼はレベル3会議の出席者に対し、「契約書にLiquidated Damages(リクィデイテッド・ダメージ)条項は含まれているか」と何度か尋ねていたのです。その響きがクールだったのに加え、電話の相手の怯む様子が無言状態の長さから読み取れて印象的だったため、試しに使ってみようと咄嗟に思い着いた私。
「え?なんだって?」
電話の向こうで、PMがさっと気色ばむのを感じます。
「そんなものあるわけないだろう。これは資料を集めて分析し、レポートを書く仕事だってさっき説明したばかりじゃないか。どうしてここでLD(エルディー)が出て来るんだよ?」
言葉の意味を理解せずに質問したのですから、こちらの落ち度なのは百も承知です。しかしPMの反撃が予想外に激しく、「エルディー」などという略称を使うことで知識の差を見せつけられたこともあって、すっかり落ち込んでしまいました。
電話会議終了後、エリカに話しかけます。
「 単語の意味を知らないまま使って逆襲にあっちゃった。Liquidated Damagesって言葉、知ってた?」
「実はさっき、シンスケの質問を聞いた時に調べておいたの。読み上げるわね。」
彼女がインターネットの画面を、いかにも「私だって知らなかったのよ」とかばう様な調子で棒読みします。
「なるほどね。スケジュールの遅れや成果品の不具合のために契約相手に与えた損害を、一日当たりいくらと決めて賠償する条項ってわけか。確かにエドは、建設設計プロジェクトのレビューでこのワードを使ってた。そうだよね。レポート書くだけの仕事に、そんなものあるわけがない。あ~あ、本当に僕は何をやってるんだか…。」
「気にすること無いわよ。私だって、会話の内容を全部理解出来てるわけじゃないのよ。」
「慰めてくれて有難う。でも、今の失敗はさすがにこたえたよ。」
早く一人前にならなければ、という焦りが、自分を実力以上に見せようと駆り立てていることは自覚していました。失職の危機を一時的に脱したとは言え、折角チャンスを与えてくれたエドの忍耐力をいつまでも試し続けるわかにはいかないのです。
こんな風にして、日一日と心身の疲れが蓄積していました。平日は、通常業務終了後にプロポーザル準備の仕事に取り組むため、恒常的な深夜残業。土日は朝5時起きし、近所のスターバックスでPMP資格取得のための試験勉強です。辞書を引き引き、専門用語を丸暗記しながらプロジェクト・マネジメントの基本を頭に叩き込みます。そして家族が目を覚ます頃に帰宅し、ヨチヨチ歩きの息子の相手をする、というライフスタイル。
プロポーザル締め切り前日の日曜日、早朝の試験勉強を終えて無人のオフィスに出社した私は、自宅で作業を続ける同僚サディアと、電話で話しながらスケジュールを仕上げて行きました。オレンジ郡のプロジェクト獲得のために競合他社から引き抜かれて来た彼は、下水道管老朽化検査のエキスパートです。インドの大学を卒業後、渡米して修士号と博士号を取得し、その後四半世紀、エンジニアとしてのキャリアをアメリカで積んで来ました。インド出身者にありがちな強いアクセントは無く、一語一語を丁寧に発音します。カールした銀髪、縁なし眼鏡の奥で光る好奇心に満ちたその瞳は、アインシュタインとの血縁を思わせます。
「ちょっと待って。そんなに急がないで。今考えているところだから。」
先走る私を悠然と制する、電話の向こうのサディア。早くスケジュールを仕上げなければ翌朝の提出に間に合わないため、私は焦りに焦っていたのです。彼ののんびりした口調に、やや苛立ちながら。
彼との電話を切った時には、既に陽が落ちていました。がらんとしたオフィスの天井灯を、頭上の一列だけ点灯します。仕上がったバーチャート・スケジュールをメールしてサディアの最終確認を受け取った後、各タスクに「リソースを載せる」作業に移ります。各プロジェクトメンバーの労働時間が一日8時間を超えないよう試行錯誤を繰り返し、リソース・グラフを仕上げたのが夜10時過ぎ。これをプロポーザル・コーディネーターに送信した後、くたくたになって帰宅しました。
翌日の昼、プロポーザル無事提出との知らせを聞いた後、サディアに誘われて日本食レストラン「将軍」へ行きました。目の前の巨大な鉄板でシェフが分厚い肉を焼くのを眺められるカウンター席に、二人並んで着席。
「君の頑張りが無ければ、今回のプロポーザルは到底まとまらなかったよ。本当に有難う。今日は僕のおごりだ。」
私は焼肉定食を頼み、サディアは肉抜きチャーハンを注文しました。お肉食べないんですか?と尋ねる私に、インド出身者には菜食主義者が多いんだよ、と彼が微笑みます。
「インドといえば、ヨガですよね。ヨガやるんですか?最近、このへんでもすごく流行っていますよね。私も無料体験コースに参加したことがあるんですが、床に寝転んでストレッチしてる最中に眠っちゃって。静まり返ったジムの中、いびきをかいて鼻を鳴らしちゃったんです。短時間に二回も。もうそれ以来恥ずかしくって、ヨガ・アレルギーですよ。」
会話の糸口を作るためのこの軽口に対し、サディアは穏やかな表情を浮かべたままこう応えました。
「僕は過去35年間、毎日ヨガの修行をしているよ。」
「え?そうだったんですか?ごめんなさい。失礼なことを言っちゃいましたね。」
ちょっと注意していれば、年齢の割に引き締まった彼の体形や冷静沈着な物腰から、ヨガとの関連性は簡単に連想出来そうなものです。どうして気づかなかったんだろう?
「いや、失礼なんてとんでもない。ヨガがこの国でどう扱われているかは、よく分かってるつもりだからね。まず、誤解しないでもらいたいんだけど、ヨガは単なる柔軟体操じゃないんだよ。身体の柔らかさを競うだけなら、人間は猿にも勝てないからね。ヨガの真髄は、己と外界との間で起こる、精神の融合なんだ。精神を集中することで、幸せを創り出す。たとえば、美味しい物を食べて幸せになろうとするのではなく、何を食べても美味しいと思うことを自分で選択する。我が身に起こることが幸か不幸かを決めるのは、自分の精神なんだよ。」
「あの、ちょっと待って下さい。メモ取ってもいいですか?今、ものすごく良い話を聞いてる気がするんです。」
「もちろんだよ。」
私は急いで尻ポケットから手帳を取り出し、彼の説話の要点を書き取り始めました。
「我々は、自分が考えていることを常に意識し、どう考えるかを慎重に決断しなきゃいけない。日々の想念が、着実に己を変えて行くんだ。ほら、ここに水の入ったコップがあるだろう。」
彼が、よく冷えて外側が水滴で一杯になったコップを、ひょいと摘み上げて指さします。
「ここに入っているのが、濁った泥水だとしよう。しかし毎日少しずつでも浄水を注いで行けば、いつの日かコップは清い水で満たされる。泥水を注ぎ続ければいつまでたっても泥水だ。己の魂が周囲のネガティブな想念に染まらないよう注意する必要がある。他人の悪口ばかり言う人間には、なるべく近づかない方がいい。」
「なるほど。」
「煩悩(desire)を切り捨てよ。サンスクリット語ではクレーシャというんだが、ぴったりした言葉が英語に無いので、ここは欲望(desire)としておく。己の欲望に気付いたら、直ちにそれを捨てるよう努めること。欲望をすべて排除した時、人間は最高に強くなれるんだよ。」
頭の隅で長い間しこっていたものが、ふわっとほぐれていくのを感じます。
「煩悩を持たない者は、周囲が自分をどう扱うかについて、何の期待も不安も抱かない。だから何を言われても傷つかないし、何を言われるかについて気を揉んだりもしない。」
彼の言う通りじゃないか。人からどう思われるかなんて気にしなければ、もっと楽に生きられるはずなんだ…。
「でも、それってすごく難しくないですか?」
と私。
「もちろんだ。簡単に出来るくらいだったら、僕だってこうして35年も修行を続けてないよ。」
包容力をたたえた笑顔で、私の目をじっと見るサディア。
「焦らずに淡々と、日々精進を続けるだけ。昨日より今日が、ちょぴり良くなってればいいじゃないか。」
老師のこの言葉で、再び前へ進む気力を取り戻した私でした。