数カ月前に採用した女性社員のカンチーは、ベトナム生まれのアメリカ育ち。大学を出てからわずか数年なので、下手したら自分の子供でもおかしくない年齢です。うちの息子が何事にもちゃらんぽらんなのと対照的に、常に気を張って生きている感じの彼女。打合せ中は真剣な面持ちでメモを取り、席に戻って時々読み返しては頭に沁み込ませようとする姿をよく目にします。はす向かいのデスクでパソコンに向かう彼女に声をちょっとかけると、手を止めて素早く立ち上がり、私の横まで歩いて来てさっとメモ帳を拡げます。
彼女の年齢の頃はバブル景気に浮かれ、テニスだ飲み会だ、と仕事そっちのけで遊んでいた私。日中あまりにも眠いので、休憩室で仮眠することもしょっちゅうでした。業務中の私語は普通で、同僚や先輩との会話の大半は無駄話。社員旅行先の温泉旅館に呼ぶコンパニオンの手配にも、職場の電話を平然と使っていました。「少し年増の女も混ぜといてくれよ」と、横で課長が注文したりして…。大らかな時代だったのですね。そんな私の目に、カンチーの真面目さは驚異です。あまりに真っ直ぐで、逆に心配にもさせられます。仕事と遊びの境界を少し曖昧にしておくことも、心の健康のためには大事なことなんじゃないか、とちょっぴり思う私。最近はセクハラだ何だでがんじがらめになって、冗談のひとつも言えません。そんな職場が健全だとも思えないのです。
ちょっと前のある日、彼女が携帯プロバイダーらしき相手と電話で何やら言い争っているのを耳にしたので、こんな質問をしてみました。
「BYOD(ビーワイオーディー)知ってる?」
BYODとは、Bring
Your Own Deviceの略で、直訳は「自分のデバイス(携帯端末)を会社に持ってくる」という意味。意訳すると、「個人保有端末の業務上使用」って感じでしょうか。要は、個人のスマホを仕事で使うことを会社がサポートするプログラムです。業務のメールや電話を社員の私用スマホから出来るようにし、会社が一定額の費用払い戻しをする。社員は二台の端末を持ち歩かなくて済む上に、会社もコストを抑えられる。しかしその代償に、個人の携帯番号は社内で公開されてしまうし、企業機密が個人端末を通して社外に漏れる危険性も高まる。
発表当初は、「公私の境界がこんなに曖昧な制度をスタートしちゃっていいのかよ?」という声が大半でした。個人情報を拡散したくないから、と頑なに参加を拒む人も多数。それが今では、まるで当たり前のこととして受け入れられている。
「何ですかそれ?初耳です。」
というカンチーに、
「個人の携帯番号を社内で公開することさえ気にしなければ、会社から払い戻しが来るんだ、これは美味しいでしょ。」
とお気楽な説明をする私。暫く悩んだ末、彼女は意を決して総務のヘザーを訪ね、書類にサインしました。
ところが一昨日、大ボスのテリーから、この件についての質問メールが届きました。
「この制度は、一日の大半を社外で過ごすようなタイプの仕事をしている人のためにあるのよ。どうして彼女にこれが必要なの?」
え?そんな条件あったっけ?急いでイントラネットを検索したところ、どうやら最近付け加えられた条項みたいです。発足当初は無条件で一斉適用しておいて、一旦制度が広まったら更なるコストカットのために条件を厳しくする、というやり口か。会社もなかなか賢いじゃないの…。
「それは知りませんでした。却下して下さい。彼女には話しておきます。」
とあっさり引き下がる私。カンチーの横にいって書類棚に腰を下しました。
“I have bad news.”
「悪いニュースがあるんだ。」
そう真顔で告げる私を見て、急激に硬直する彼女。そのあからさまなうろたえ方が面白かったので、思わず必要以上に間を取って顔色の変化を窺います。
“Please don’t cry.”
「泣き出さないでほしい。」
わざとドラマチックにトーンを落とし、更に間を取りました。激しく動揺する彼女の隣の席で、ただならぬ様子に気付いたシャノンが、何事かとこちらを振り向きます。
「大丈夫です。何ですか?ちゃんと言ってください。」
顔を紅潮させつつも、どんなに恐ろしい宣告でもしっかり受け止める覚悟を決めた様子のカンチー。
「ビーワイオーディーが却下されちゃったんだよ。そもそもオフィスワーカーには応募資格が無かったんだってさ。」
と明るく告げる私に、更に顔を赤くした彼女が言いました。
“Oh, you scared me!”
「もう、ビビったじゃないですか!」
解雇宣告みたいに深刻なニュースを想像していたであろう彼女は、大きく息を吸って安堵します。あっはっは、と笑う私に、向こうからシャノンが笑顔で、
“Shinsuke does that!”
「こういうことするのよ、シンスケは!」
年齢の近いシャノンはちゃんと分かってくれているのですが、このおふざけが若いカンチーに好意的に受け取られたかどうかは謎です。人事に訴えられませんように…。