12歳の息子が通う日本語補習校の運動会にスケジュールを合わせ、ミシガンから義理の両親が飛んできて我が家に暫く滞在することになりました。そんな折、義父の遠い親戚であるR社のM社長が、仕事のパートナーで我々夫婦の友人でもあるAさんと一緒にサンディエゴを訪問することになり、皆で会食する運びに。M社長は、日本を代表するビジネスマン。総理大臣や世界のトップエグゼクティブとお友達なので、我が家の知り合いの中でも断トツの成功者です。
秘書から事前に連絡が入り、社長とAさんはこの機会を利用してゴルフを楽しむ予定なので、私と義父に「ご一緒にいかがですか?」とのこと。場所は、USオープンの舞台としても使われる名門コース、Torrey
Pines(トーリーパインズ)。ところどころ起伏が激しく、海風も強いため、難度の高いゴルフ場として有名です。
「二人とも永らくクラブを握っていないので、遠慮します。」
と二つ返事で(?)お断りを入れる義父。膝と手首の調子を崩している義父は、かつて毎週のようにコースを回っていたアマチュア・ゴルファー。さぞかし残念だったことでしょう。彼のそれに比べ、私のゴルフ歴はお粗末なもの。17年前に新婚旅行でミシガンを訪れた際に義父からお祝いとして買ってもらったクラブのセットは、押入れで埃を被ったまま。18ホール回ったのは、この17年間で5回ほど。スコアだって、一度も70切ったことが無い(ハーフで)。妻に誘われてレッスンを受けたことはあるけど、それも2年か3年前の話。この状況で、「石川遼と回ったこともある」M社長と、しかも超一流コースで同伴出来るわけがない。
翌朝、同僚リチャードに笑いながらこの話をしたところ、「あんた正気か?」という勢いで食ってかかられました。
「それほどの機会をみすみす逃すなんてどういうつもりだよ?僕だったら何が何でも参加するね。」
「だって知っての通り、ゴルフに関しちゃほぼド素人なんだよ。いくらなんでも相手に迷惑でしょ。」
「そんなの関係ないよ。たかがスポーツだよ。上手かろうが下手だろうが、楽しめばいいんだよ。そういう人物と5時間も一緒に遊べるんだよ。またとない機会でしょ!」
そう言われてみれば、確かにそうだよなあ…。段々と勿体なく感じて来て、義父を通して「やっぱり参加させて頂くわけにはいきませんか?」と前言撤回を申し出たところ、すんなり通りました。これで、当日までのわずか10日間で「同伴者に迷惑をかけない程度まで」ゴルフの腕を仕上げなければならなくなりました。
数年前に指導をお願いした日本人インストラクターのS先生に急遽連絡し、事情を話したところ、「そういうことなら全力でサポートします」との有り難いお言葉。ほぼ一日おきに、アフターファイブのレッスン予約を入れました。彼の戦略は次の通り。
「長いクラブの練習は間に合わないでしょう。きっぱり諦め、大怪我しない方法でいきましょう。4番のユーティリティーを買って来て下さい。」
「まずはフォームとグリップを仕上げるため、8番アイアンの練習をしましょう。」
さらにパターと寄せを習い、最後にバンカーショットでまとめます。
「いよいよ明日ですね。短期間でしたが、やれることは全てやりました。あまり考え過ぎず、とにかく楽しんで来て下さい。」
と、にっこり笑うS先生。
そして昨日の午前中、M社長とAさんと三人で18ホールを回りました。青い空に青い海、涼しい微風、最高のコンディション。終わってみれば、彼らより40打ほど多く叩いていましたが、それでも生涯ベストスコアでした。二人はとっても優しく、カートの運転もスコアの記録も全てやってくれました。クラブを持って走り回るのに忙しい私に、一度などはM社長が私のバッグからパターを抜き取って、「これ、必要じゃないですか?」と持って来てくれました。「迷惑をかけない」という当初の目標を達成出来たとはとても思えないけど、「ゴルフを楽しむ」ことは出来ました。
さて、本番当日に至るまでの私の慌てぶりは、客観的にみれば非常に滑稽でした。どこからどう見ても、「泥棒を見て縄をなう」、つまり「泥縄」の10日間。これ、英語だと何と言うのかなあ、と色々同僚に聞いて回ったのですが、誰もぴったりした訳案をくれません。ネットで調べたところ、
“Close the barn door after the horse has escaped”
「馬が逃げてからbarn(納屋)の戸を閉める」
という訳が多く紹介されています。う~ん、近いような気もするけど、馬が逃げちゃってるってことは、もう間に合ってないんだよなあ。これだと根本的に意味が違うぞ。泥縄にはまだ挽回のチャンスが僅かばかり残っているんだから…。もっとぴったりした訳はないものか、と思案しつつ、同僚サラを訪ねました。
「Close the barn door っていうイディオム、知ってる?」
私の質問に、え?と動揺するサラ。「何てこと聞くのよこの人は?」という、意外なほど不審な表情。私が置かれていた状況を軽く説明し、「泥縄」に当たる英語表現を探してるんだよ、と付け足します。
「オンライン辞書に載っていたのはこの “Barn
Door” イディオムなんだけど、日本語のドロナワとは違う気がするんだよね。」
と私が言うと、
「聞いたことはある表現だけど、私は使わないわね。」
暫く議論した結果、全く同じ意味のイディオムは英語に存在しないのではないか、という結論に達しました。
「最初は、Your barn door is open (納屋の戸が開いているよ)って表現について聞かれてるんだと思ったわ。このイディオム、知ってる?」
とサラ。
「いや、知らないな。どういう意味?」
「ズボンのチャックが開いてるよ、って意味!」
「え?それは知らなかった!」
サラと一緒にひとしきり笑ってから、自分のオフィスに戻りました。部屋に入る直前に思わず立ち止り、ズボンの前を確認しました。