先日、生物学チームの同僚エリックがやって来ました。
「ごめん。このことすっかり忘れてた。今時間ある?」
彼が手に持っているのは、小さなガラス瓶。さっそく立ち上がって、二人でラボ室へ向かいます。
大学で昆虫学を専攻していたというエリックと、去年あたりから急速に親しくなった「元昆虫博士」の私。二週間ほど前に自宅で捕まえた虫の鑑定を依頼したのですが、現場仕事に忙殺されて暫くオフィスに姿を見せなかった彼のデスク上、ずっと放置されていたのです。
この虫、一月末に古い一軒家を購入してからというもの次々と湧き出して我々一家を悩ませて来たトラブル(雨漏り、下水管の詰まり、など)の中、最も妻を逆上させた輩です。どこからか大量に現れてバスルームや寝室の壁や床をうろうろと這い回る彼等は、体長が一ミリにも満たないので、単体ではそれほど気になりません。しかしこれが水をかけてもびくともしない上に、やたらすばしこい。潰そうと思って指を近づけると、一瞬で姿を消してしまう。まるで「ワープ」するように、数十センチ先に瞬間移動出来るのです。
「知らないうちに身体中を這い回ってるかもしれないじゃない!」
と、妻を恐怖のどん底に陥れたこの虫。数週間前には害虫駆除の会社を雇って薬を散布してもらったのですが、数こそ減ったものの全滅には至っておりません。担当者は、
「これはSpringtail(トビムシ)ですね。人間には害を及ぼしませんよ。ただ湿ったところが好きなんで、なるべく部屋を乾かして下さい。」
と笑顔でコメントして帰って行きました。
検体を顕微鏡で確認したエリックも、これがSpringtailであることに同意しました。家屋の周辺や床下の湿った土に住んでいて、何かのきっかけで家の中に入り込んでしまったのだろう、とのこと。彼はCollembora(コレンボラ)という学名を使い、解説を続けます。
「その跳躍力は、人間にたとえればエッフェル塔を飛び越えるくらい強力なんだ。」
「人間を刺したり噛んだりはしないから、心配する必要無いよ。」
「コレンボラの存在は、良質な土があることの証明でもあるんだよ。彼等が好きなある種のキノコ(菌類)があってね、このキノコは植物に寄生して糖分を吸い取りつつ、お返しに栄養分を生成して送り込む。一方コレンボラはキノコを食べて土中に糞をするんだけど、この糞が土質を改善する。つまりこの三者の共生関係が、肥沃な土地の成り立ちに重要な役割を果たすんだな。」
「すごいね。こんなちっぽけな存在が大地の恵みに貢献してるなんて!」
顕微鏡を覗き込みながら感嘆する私。
“That’s a
circle of life.”
「サークル・オブ・ライフだね。」
とエリック。直訳すれば「生命の環」でしょうか。これ、映画「ライオン・キング」の主題歌タイトルにもなっていますが、何だか分かったような分からないような高尚な言い回し。後で色々な人にこのフレーズの解釈を尋ねて回りました。
「エリックの発言はちょっとズレてると思うな。サークル・オブ・ライフっていうのは、一つの生命の初めから終わりまでという意味だよ。例えば鮭が川の上流で孵化し、成長しながら河口へ向かい、大海で暫く暮らしてから川を遡って産卵して死ぬ。そういうのを指すんだ。」
と、生物学チームの重鎮、ロン。
「賢くて鋭かった父が最近ボケて来て、どんどん子供がえりしてるの。その様子を見ながら、これってサークル・オブ・ライフだなあって思うの。」
と、全く違うアングルの見解を述べる総務のトレイシー。
「俺はエリックの言うことに賛成だな。我々を含めた全ての生命体が、互いに依存しつつ生と死のサイクルを紡ぎあげている自然界全体の営みを指した表現だと俺は思うよ。」
と、ランドスケープ・デザイナーの同僚ディック。人によって解釈の分かれるフレーズなのですね。
帰宅して、早速妻に報告。あのちっぽけなトビムシが、キノコ、そして庭の植物との共存関係を構築しつつ、結果的に土を肥やしていることを説明したところ、間髪入れずこう返しました。
「勝手にやっててよ、外で!」
…そりゃそうだ。
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